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吉田運輸の歴史

創業

大学時代のバイトで某大手菓子メーカー社長の運転手をした時だった『きみ、トラックに乗ってみないか?』のひとことが吉田運輸誕生へつながっていく・・・。吉田治雄(初代社長)が個人でトラックを購入しお菓子を運び始める。直ぐに弟(現・専務)が加わり台数が2台、3台と増えていき建材卸問屋の仕事も受注した。台数が増えるに伴い、昭和54年9月東京都杉並区西荻窪に本社営業所を開設(現在は埼玉県所沢市に移転)、吉田運輸株式会社が動き出す。「ひとつでも多くの仕事をもらうんだ!」「だから、少しでもお客さんに喜んでもらえるように丁寧な作業をしろ!」社長自ら先頭に立って仕事をこなす日々が続いた。

 

成長

立ち上げから5年、お客様視点を徹底してきた甲斐あって、業績は順調に伸びていった。某建材メーカーから仕事の依頼が来たときは、社長の熱意と仕事ぶりの評判はすでにその建材メーカーの耳に入っていたようで、即日のうちに契約。更には、評判が評判を呼び、合板系建材メーカーなどの会社と次々に契約!

このころには、はやくも社員18名体制に。昭和60年頃、創業期からお付き合いしているお客様に対して、もっと吉田運輸としてサービスできる部分があるだろうと考え、大切なお客様にお会いしながら、吉田運輸のサービス力を伝えていった。その結果、それまで培った吉田運輸の品質力、そして社員の人間力が発揮されシェアが拡大していく。会社も30名体制、過去最高の水揚げをキープする日々が続いた。今後継続的に成長を続ける、かに見えたのだが・・・。

 

困惑

しかし、平成5年頃、起業当時からお付き合いしていた建材卸問屋に始まる「運賃値下げ要求」が始まった。当時は荷主企業のコストダウンの動きが活発になったころで、既存荷主のほとんどの企業から、それまでになかったほどの強烈な値下げ要求が頻発するようになった。そのうえ、主要荷主だった建材メーカーの一部事業撤退が重なり、それまで順調だった配送ルートで減車を迫られる状況が続いた。「厳しい状況だ。しかし、社員の給料は減らすわけにはいかない!」。社長は個人資産を取り崩しながら社員に給料を支払っていた。そんな中、新しいお客様を探すため、飛び込み営業をする社長の息子(現・常務)がいた。『名刺だけ渡して帰ってくる営業を、いつまで続けてよいのだろうか・・・』苦悩のなか、社長が脳梗塞で倒れ不安が吉田運輸全体を包んでいた・・・。

 

別れと復活

『ただ飛び込み営業をしてもダメだ。もっと吉田運輸としての強みを持たなければ!』そう考え、平成17年、情報発信のためのホームページや、ドライバーの情報共有化のための携帯用メーリングリストを導入。社内体制の強化を図った。これにより社員の行動が把握できるようになり、ドライバーのモチベーションアップと勤怠チェックができるようになった。加えて、お客様向けにドライバー案内シートを作成し、加えて完了報告も実施する仕組みを確立、お客様に喜んでもらえるようになっていく。そしてタイヤメーカー、建材卸問屋、鋼材加工会社と次々に契約。順調に回復軌道に乗ったかにみえた直後の、平成18年4月10日に闘病中だった社長が永眠・・・残された妻(現・社長)が会社を引き継ぐ。同年8月、積み荷の安全確保と車両盗難防止のために24時間対応の防犯カメラを設置。そして、翌年4月チームマイナス6%と、グリーン物流パートナーシップに参画。環境保全のための取組みを、吉田運輸としてできることから始めるという意志を示している。更に平成20年5月、全車両にドライブレコーダーを取り付け、事故撲滅への取り組みもはじめた。平成18年から取り組んでいる、エコドライブ活動がNHK【おはよう日本】の中で取り上げられ生中継される(平成23年3月7日放送・放送の内容はコチラからご覧になれます⇒【原油高、運送業者の対策は】) 平成24年3月21日に、吉田運輸で作成した経営計画書が埼玉県知事より【経営革新計画書】の承認される。平成25年1月にハイブリッドトラックを2台導入(三菱ふそう:キャンター)

 

 

 

これまで幾多もの危機を乗り越えるたびに強くなってきた吉田運輸だが 『100年企業を目指してますので、まだまだこれからが勝負です!』そう語る息子(現・常務)の言葉に、父(創業者)の想いが重なる。